仙石氏中興の祖といわれる秀久は、天文20年(1551)仙石治兵衛久盛の子として、美濃国加茂郡黒岩(現岐阜県加茂郡坂祝〔さかほぎ〕町)に生まれたという。久盛は美濃の守護大名であった土岐氏に仕〔つか〕えていたと伝える。仙石氏は土岐氏の支流であるともいうが、『改選仙石家譜』に「美濃の本地八百四十五貫六百文」ともあり、いずれにしても土岐氏配下の一小土豪であったものであろう。

 永禄7年(1564)14才の秀久は、美濃攻略を進めていた織田信長に臣従し、木下(豊臣)秀吉の部下に配属されている。これが彼の出世の糸口であった。

 このように、少年時から秀吉に仕えた秀久は、本能寺の変による信長の死後、秀吉が天下の主導権を握るにおよんで、天正11年(1583)淡路国(淡路島)を与えられ洲本城主に、さらに同13年には讃岐国(香川県)を与えられ、高松城主に転じている。いずれもその地の平定戦における武功が認められてのものという。

 ところがその翌14年、秀吉による九州島津攻めの先遣隊として出陣していた秀久は、島津軍の挑発にのってその大軍と戦い惨敗、秀吉の怒りをかって所領を没収されてしまう。

 しかし同18年、小田原攻めのおり、秀久は浪人の身ながら秀吉軍に加わって奮戦する。そしてこれにより先の罪を許され、改めて信濃国佐久郡(佐久市・小諸市・南佐久郡・北佐久郡一円)を与えられ、小諸城主になったのである。

 なお秀久は、伏見城中において、大盗賊として有名な石川五右衛門を捕えたとの伝説でも知られている。その賞として秀吉より拝領した名器「千鳥の香炉」は、明治5年皇室に献納されたという。

(以上主に『改選仙石家譜』による)