仙石忠政画像

 甲冑に身を固めた姿で、背後に金幣の馬印を立てている。この馬印と同じものであろうか、仙石家伝来の忠政所用という金幣馬印が現存する。(下の写真)
仙石家旧蔵資料。
(出石町教育委員会蔵)


仙石忠政金幣小馬印〔きんぺいこうまじるし〕

 仙石家旧蔵品で忠政所用と伝わる金幣(金色のぬさ)の馬印。箱書きには「忠政公御小馬印金幣」とある。出石神社蔵の秀久所用金幣馬印に対して「小馬印」と称したものであろう。(当館蔵)

忠政、小諸領襲封

慶長19年(1614) 7月20日
酒匂清兵衛・恵崎又左衛門宛仙石忠政書状





 急度〔きっと〕申し遣はし候。
一 我等の儀駿府に到着、今度は秀久公の遺物を進上、江戸へ帰るべき
の処〔ところ〕に、存知の外、忝〔かたじけな〕き御諚にて、去る十七日に佐久郡拝領の御礼申し上げ候。御礼申し上ぐる所座も自余の大名衆と相違ひ、おくの御座の間にて御礼申し上げ候。様子に於いては内膳(仙石政直)・三郎兵衛(仙石久清)・蔵人方へ申し遣はし候間、聞き届くべきの事。
一 近日江戸へ帰り候。其れより小諸に至り参着すべく候間、内々内々(桁字カ)其の意得〔こころえ〕仕らるべく候事。
一 先度より度々申し遣はし候あげの金子の儀、其の上相談候。あげ物共、我等小諸へ参着候はぬ已前に相調へ、則ち上げらるべく候。若しとどこほり候はば、其の方両人曲事たるべく候間、其の意得〔こころえ〕尤もに候。其の為に前かどより申し遺はし候事。
一 我等郡仰せ付けられ候上は、郡中諸式みだれがわしくこれ無き様に仕るべく候。秀久公御仕置きを返し申すにあらず候へ共、世間のとりざた其のかくれなく候間、随分諸式法度立て候様に尤もに候。此の跡のごとく当座をぬけ候様に分別仕る間敷く候。急度埒〔らち〕を明け候事は、被明然るべきの事。
一 代替りの刻は、返り百姓又は住宅の百姓互いにそうろん仕る物にて候。返す返す非分のやからみだれがわしく双方の理非の沙汰無用に候。返り百姓やどはいかにも懇に仕り、兵部帰城せしめ、其の上在付〔ありつき〕を緩々〔ゆるゆる〕と有るべく候間、古郷にて候条、罷り帰り候へといかにもいかにも懇に其の百姓に申し聞け、我等越し候迄は理非の沙汰無用に候。
我等越し候て、有り様に申し付くべく候事。
右の条々、其の意を成し、昼夜油断有る間敷く候。其の方衆、存じ立ち次第随分とりたて遣はすべく候間、心安く候はせらるべき者也。
                    ひやう部
      七月廿日 忠政(花押)
追って申し遣はし候。巣廻りの儀うち申さず候哉。時分過ぎ候共、油断無く申し付くべく候。今に至り左右なき事は油断候と存じ候。
已上。
                  酒匂清兵衛殿
                  恵崎又左衛門殿


 父秀久の死により家督を相続し、佐久郡を改めて拝領した忠政が、その礼に駿府在住の大御所徳川家康のもとに出向いたおり、国元の家臣宛てに出した書状。包紙に「忠政様御自筆之書」とあるとおり、自筆とみられる。
 『元和年中 仙石忠政家臣分限帳』には、恵崎又左衛門は禄高300石、酒匂はその子かと思われる十三郎が同200石となっている。両名ともに郡奉行〔こうりぶぎょう〕に相当する職務にあったものであろうか。
 領内の諸事についてしっかりと法度〔はっと〕(おきて)を立て、みだりがましいことのないようにと強調しているが、それにつき「秀久公御仕置を返し申すにあらず候へ共・・・・」と父秀久の治政に批判的であったかのようにもとれる表現をしている点が注目される。
 また返り百姓(戦国の争乱、貢納不能等により一旦逃亡した後、故郷へ帰った農民)と一般の百姓間等の争論については、忠政が小諸に帰城してから沙汰を申し付けるから、それまで待つようにとも命じている。
 代替りにあたっての忠政の清新な心意気のほどがうかがえる史料である。
(『仙石家文書』上田市岩下 若林勅滋氏蔵)