1882〜 - 民衆を描く刀画 - 山本鼎の生涯
1882(明治15) 0 10月24日、愛知県岡崎市上肴町(現伝馬通り一丁目)に生まれる。本籍は愛知県幡豆郡永野村55番戸、祖父良才は漢方医、父一郎、母たけ。一郎(1859-1932)は岡崎康生町牧興七郎四男、良才の長女たけ(1861-1937)の婿養子となる。たけの妹たまは後に中学教師村山谷助と結婚し、詩人画家村山槐多をもうける。
1887(〃20) 5 母とともに上京、父が森鴎外の父静男経営の医院の書生として住み込んでいたため、浅草山谷に住む。
1890(〃23) 8 母が原田直次郎の油絵「騎流観音」のモデルとなる。
1892(〃25) 10 3月、小学校尋常科四年を卒業、東京芝の木版工房・桜井暁雲(虎吉)方に弟子入りする。翌年から人物像などを仕上げる。
1898(〃31) 16 父、長野県小県郡神川村大屋(現上田市)で医院開業。
1901(〃34) 19 桜井木版工房を年期あけとなり、報知新聞社に入社。
1902(〃35) 20 8月、東京美術学校西洋画科選科入学。
1903(〃36) 21 春、谷中清水町の石井柏亭宅に下宿、夏、油彩「渋温泉にて」制作。
1904(〃37) 22 春、房州に旅行、水彩「御宿風景」 。
7月、木版二色刷「漁夫」(「明星」誌)石井柏亭「刀画」と名づける。
1905(〃38) 23 5月、青木繁画「繍斧」彫る。(蒲原有明詩集「春鳥集」装画)
夏、石井家とともに千駄木町247番地に転居。油彩「蚊帳」。
1906(〃39) 24 3月8日、本郷森川町1番地表北裏37号寺岡方に転居。卒業制作「自画像」。
4月2日、東京美術学校卒業「平坦」誌に寄稿。有楽社発行、北沢楽天主宰の「東京パック」の仕事をする。
秋、千駄木化町161番地堀口幸方に転居。
1907(〃40) 25 2月、「版のなぐさみ」(『みづゑ』誌、1908年まで、5回連載)
2月、半調色版「千曲川いざよふ波の岸近き宿にのほりつ」(『みづゑ』誌)
5月、芝区西久保巴町3に転居。石井柏亭、森田恒友と『方寸』誌創刊。「現代の滑稽画及び風刺画について」(『方寸』一-三号)ほか同誌には終刊(1911年7月)まで、評論、短文、誌、スケッチ、版画など多数発表。
7月、自画石版「漁師街」(『みづゑ』誌)。秋ごろ、本郷区西須賀町16番地寺岡方に転居。油彩『むすめ』
1908(〃41) 26 倉田白羊、北原白秋、小杉未醒、若山牧水、藤野営夫らと親交12月22日、パンの会発足、発起人となる。
1909(〃42) 27 3月、北原白秋詩集『邪宗門』に版画寄せる。11月、未醒、柏亭、白羊、白秋、らと長野県下を旅行。大屋にて画会。
1910(〃43) 28 7月、京都市上京区寺町通り今出川上ル5丁目西入ル桜木町1番地、村山家に滞在、従兄弟の村山槐多に油彩道具を与える。水彩画石版「供養花」(『みづゑ』)
1911(〃44) 29 東京市外田端142番地に借家、東京版画倶楽部開設。
5月、同倶楽部から坂本繁二郎と版画集『草画舞台姿』刊。
渡仏費捻出のため肖像画の注文受ける。はがき通信「尋常茶飯録」(上田朝日新聞)30回連載。