1934〜 - 山本鼎の晩年 - 山本鼎の生涯
1934(昭和9) 52 4月、春陽会展に「メノコのクロッキー」「朝の白馬岳」出品。「小中学生の素描」(『アトリエ美術大講座』)。南弘、三土忠造の協力で作品頒布会。
6月10日|8月13日、朝鮮総督府の招きで朝鮮総合美術展審査のため渡鮮。油彩「京城」ほか。「朝の白馬岳」国立公園協会に納入。
12月11日、愛人岩崎ナカとの間に男子生まる。
1935(〃10) 53 4月、春陽会展に「読書」「大願即興」「白菜図」出品。
7月、「帝展廻り舞台」(『アトリエ』)。東京・日本橋三越にて個展、「ひき船」「熱海の海」「初島」「新緑の湯ケ島」「箱根の強羅」ほか出品。
12月、帝展参興に指定され、春陽会退会。東京府立美術館十周年記念展に「北信」「元山風景」出品。
1936(〃11) 54 5月、帝展再改組で「指定」となる。
 10月、新文展洋画部審査員。
 11月、「新文展について」(『アトリエ』)。文展第二部招待展に油彩「冬瓜」出品。
1937(〃12) 55 5月、福井県へ旅行、油彩「越前海岸・河野」ほか制作。
7月5日、本籍を長野県小県郡神川村大屋から東京市の現住所へ移す。
11月、新文展に「園長の像」出品。
12月30日、母たけ死去
1938(〃13) 56 3月、東京・銀座、日動画廊にて個展。
8月17日〜10月11日、台湾へ写生旅行。油彩「淡水江風景」ほか制作。
12月、日本版画協会第七回展に旧作特別展示される。「野鶏」「デッキの一隅」「ブルトンヌの水浴」「ブルターニュの小湾」「セーヌ河畔の村」「モデル」「ルクサンプール公園」「湖畔の釣人」「支那の女」「サンマルタンの冬」「ブルトンヌ」「城外の子供」「アトリエの一隅」「モスクワ」「ヴェトイェ」「香港にて」「哥路」「房州の海」「高原の路」「ブルターニュの入江」「水浴
1939(〃14) 57 1月、農民美術協力者により催青会を結成。東京・銀座・資生堂画廊にて第一回展。
4月6日、倉田白羊追悼講演会(上田商工会議所)で講演。瀬戸内海、神戸方面で制作。
7月19日、九州へ講演旅行に出発。この年、日本農民美術研究所閉鎖状態になる。倉田白羊の遺作処分で奔走。
1940(〃15) 58 1月、東京・日本橋三越で個展、「赤服の少女」「山中湖の富士」「後庭の秋」「或朝の富士」「芍薬」「外房風景」「妙高山」「野尻湖」「野尻湖畔」「きいろいエプロン」「紫陽花」「ばらの花」「くりやの野菜」「雲と富士」「箱から出した果物」「静物」「温室のカトレア」「御殿場の富士」「山のスープニイール」「江の浦麗日」「ばらの花」「ばらの花」「江の浦雪景」「しけのあと」「三嶋郊外」出品。
1月30日、東京・新橋・第一ホテルにて「山本鼎氏を画壇に歓送する会」開かれる。
8月、日本農民美術研究所の建物を神川村大屋区に集会場として売却。
10月、紀元二千六百年展「しけの朝」「北原鉄雄像」出品。
1941(〃16) 59 各地を写生旅行。
7月から秋にかけ奈良、長野、山梨などを歩く。
11月、文展に「霧の湖畔」出品。
1942(〃17) 60 9月25日群馬県榛名湖畔に滞在。
11月3日、北原白秋死去、帰京して葬儀委員長をつとめる。文展に「たばこ一服」出品。
11月16日、榛名湖畔の旅館で脳溢血のため倒れ、高崎市内の佐藤病院で加療後、帰京、「紅富士」など。
1943(〃18) 61 6月、長野県小県郡青木村沓掛、叶屋旅館に滞在。春陽会会員に復帰、秋、一時帰京。
11月、再び叶屋旅館に滞在。
1944(〃19) 62 3月、上田市袋町に転居。
 7月、軽井沢町油屋旅館にて「浅間山」など制作。
 11月、上田市馬場町に転居。「親農の美術」を提唱。
1945(〃20) 63 病床で画筆を持つ練習をする。
1946(〃21) 64歳 10月8日、腸捻転となり、上田市馬場町日新堂病院に入院して手術を受けた後死去。