信濃国分寺の創建

 奈良時代の文化で一番大きな出来事は、聖武(しょうむ)天皇の詔(みことのり)で全国に国分寺(こくぶんじ)が建てられたことです。

  天皇は国家が安らかに栄えることを祈るため、国ごとに国分寺(僧寺(そうじ)と尼寺(にじ)があります)を建てさせ、その総本家として奈良に東大寺(とうだいじ)を建てさせました。しかし国分寺といってもそうやすやすとは建てられませんでした。

 信濃国も建立に着手してから完成するまでには20余年かかったといわれます。

僧寺の発掘

調査前の僧寺跡(昭和30年代)

 信濃国の国分寺が建てられた所は、現在の国分寺の位置ではなく、その南の段丘下の畑地と推定されていました。そこの発掘(はっくつ)が始められたのは昭和38年のことです。そして9年にわたる大がかりな調査の結果、みごとに国分寺僧寺の跡が発見されました。

  たくさんの瓦(かわら)とともに礎石(そせき)・雨落溝(あまおちみぞ)などつぎつぎと掘り出され、金堂(こんどう)・講堂(こうどう)・南大門(なんだいもん)・中門(ちゅうもん)・廻廊(かいろう)・塔(とう)などをもつ一辺が約180mもある大きな寺域(じいき)(境内)であることがわかりました。


講堂跡

金堂跡

塔跡

中門・南回廊跡
 
尼寺の発掘

金堂跡中央部

 国分寺には僧寺と尼寺がありますが、信濃国分寺の尼寺の所在地にはいろいろな説があり、確かなことはわかっていませんでした。
 ところが古い文書の調査から僧寺跡の西方に尼寺の跡ではないかと思われる所が見つかり、僧寺跡につづいて発掘が始められました。そこからは、金堂(こんどう)・講堂(こうどう)・中門(ちゅうもん)・廻廊(かいろう)などのほか築地塀(ついじべい)のあとまできれいに掘り出され、僧寺とほとんど同じ大きさの建物があったことが明らかになりました。


金堂跡雨落遺構と羽目石

金堂跡