仙石氏による復典
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仙石氏による復典

仙石氏の出自

仙石家家紋・永楽銭 仙石氏は美濃(現在の岐阜県)の土豪で、仙石秀久の代に織田信長に仕えました。織田家では秀吉配下として活躍し、信長没後の天正11年(1583)には、淡路国洲本城(現在の兵庫県洲本市)の城主となり、天正13年には讃岐国を領有するに至りました。ところが翌年の天正14年、島津氏との合戦に際して、秀吉の命に背いて敗戦し、所領を没収の上、放逐され、浪人の身となります。
 しかし天正18年(1590)、秀吉の小田原攻めの折、秀久は家臣とともに参戦し、その戦功により先の罪を許され、信州佐久郡を与えられ小諸城主となります。慶長5年の第二次上田合戦の際は、上田城攻撃と上田城破却にも加わっています。

上田城復興

西虎口櫓門跡出典写真 上田市観光課

 元和8年(1622)に小諸から入封した秀久の息子・忠政は、廃城同然となっていた上田城の復興を計画し、幕府から城普請の許可を得ます。寛永3年(1626)工事に着手しますが、寛永5年に忠政が病死。さらに重臣の抗争などの事情で上田城の復興は未完成に終わっています。

 現在見ることができる上田城の姿は、ほとんどこの時に築かれたものです。未完成とはいえ、わずか2年足らずの間に、埋められていた堀を元通りに掘り返し、本丸は7棟の隅櫓と土塀、東西虎口に2棟の櫓門など、本丸の体裁を整え、二の丸も掘と土塁、各虎口の石垣などができあがっていました。

  また、発掘調査の結果、二の丸の虎口にも櫓門の礎石が確認され、忠政は二の丸にも建物を建てる予定だったことが窺われます。

 仙石氏時代の上田城は、寛永18年(1641)、貞亨3年(1686)、元禄15年(1702)の3回にわたり改修工事が行われた記録が確認されてます。
 貞亨3年と元禄15年の改修は、忠政の孫・政明の代に行われています。破損した石垣の修復、二の丸北虎口土橋の木樋を石樋に改修、二の丸南西部に煙硝蔵(火薬庫)を建設、本丸の侍番所の建て直しなどが実施されました。このうち二の丸北虎口の石樋はその姿を今に残しています。
 仙石氏は忠政以降、政俊、政明と3代84年間にわたって上田を治め、塩田平の溜池の築造・改修などによる農業振興と上田縞(紬)などの産業育成に力を注ぎました。

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