上田城について

 過去の上田城や城下町を知る上で、城郭や町屋敷の状況についてわかりやすい絵図5点を高精細画像にしました。高精細画像を見る場合はをクリックしてください。

信州上田城絵図

信州上田城絵図

名 称 信州上田城絵図
所蔵者 国立公文書館内閣文庫
製作年 正保4年(1647)
城 主 仙石政俊
本丸櫓 棟数 7棟
形式 層塔型
構造 二重
壁面 白漆喰塗籠
土 塀 構造 瓦葺、白漆喰塗籠
挟間 なし

解説

 この絵図は正保4年(1647)に仙石政俊が幕府に提出した絵図で、当時の上田城の姿をかなり忠実に表しているものと考えられる。全国の大名に、国絵図とともに提出を義務付けたもので、現存する47枚のうちの1枚である。現在、国立公文書館が所蔵するこの絵図は、江戸城の中で保管していたものを明治新政府に移管したものである。
 絵図をみると、政俊の父・忠政が復興した上田城の姿がよく分かる。忠政が志半ばで病死し、未完成に終わった上田城の復興工事であるが、政俊がそれを引き継がなかったということも分かる資料である。櫓は漆喰塗りの白壁に描かれており、現在の上田城の櫓が「下見板張り」といって、漆喰の壁を風雨から保護するために、一部を残して板で覆っている姿とは異なっている。
 上田城の信頼できる絵図としては最古のものと考えられ、幕末の上田城が仙石氏の頃の姿と大きく異なっていないことを証する資料として、よく知られる絵図である。

仙石氏在城時代の上田城下町図

元禄15年仙石氏家臣屋敷割図

名 称 仙石氏在城時代の上田城下町図
所蔵者 上田市立博物館
製作年 元禄15年(1702)
写年等 天保15年(1844)
城 主 仙石政明
本丸櫓 棟数 7棟
形式 層塔型
構造 二重
壁面 一重目に下見板張りの表現あり(東北隅の1棟のみ)
突上戸の表現あり
土 塀 構造 瓦葺、白漆喰塗籠
挟間 あり

解説

 この絵図は天保15年(1844)の写しであるが、原本とした絵図の所在は不明である。写しを作成したときの添え書きに、原本はいつ作られたのかは分からないとあるが、『信州上田城絵図』と比較すると、同じように三の丸の現在の清明小学校の場所にあった施設を、「中屋敷」と記載している(中屋敷は仙石氏の藩政期の終わりに作事場に変わる)ことから、表題のとおり、仙石氏の時代の上田城と城下町を表したものとみてよかろう。
 本丸には櫓が7棟と東西虎口にそれぞれ櫓門が描かれている。この絵図の特徴のひとつとして、鬼門除けとして建てられた東北隅の櫓2棟のうち、1棟の描き方が他の櫓と違っていることが挙げられよう。この1棟のみ、櫓の基礎にあたる部分に、縦長の板を貼り付けたような表現があるのだ。このサイトで紹介している他の絵図も含め、このように櫓の表現が1棟のみ異なるという資料は知られていない。絵図に描かれている櫓は、漆喰塗りの白壁で表現されているが、現存する西櫓は下見板張りが施されている。この板を貼り付けたような表現は、「下見板張り」を描いているのかもしれないが、7棟全てではなく1棟のみであることは謎である。
 また、城構えの西側に配された「小泉曲輪」の範囲も、捨堀から南側に伸びる谷を西限としている資料が多い中で、谷を挟んだ西側にも「小泉曲輪」の記載が見られ、興味深い。
 尼ヶ淵を流れていた千曲川の分流「内川」も、櫓下の当時の状況をリアルに示す資料と考えられ、面白い。

仙石氏家臣屋敷割図(写)

上田城古城図(本丸、二ノ丸)

名 称 仙石氏家臣屋敷割図(写)
所蔵者 上田市立博物館
製作年 元禄15年(1702)
写年等 天保15年(1844)
城 主 仙石政明

解説

 この絵図も天保15年(1844)の写しである。絵図に記された添え書きや印面から、『仙石時代上田城及城下町之図』と同じ人物が写したことが分かる。『仙石時代上田城及城下町之図』は「己本」、この絵図には「戌本」とあり、他にも子、丑、辰・・と番号がふられた本があったのだろう。
 『仙石時代上田城及城下町之図』の絵図との大きな違いは、まず、城の中にあったはずの櫓などが描かれていないこと。そして、城下に住む藩士の住まいに氏名と禄高が記入されていることだろう。元禄15年は仙石氏の末期であり、ここに記されているのは、仙石氏に仕えた藩士たちの名であることが分かる。また、城や屋敷などの面積も記入されており、貴重な情報である。
 この絵図は当時の上田城周辺の状況をかなり忠実に表していることが想定される。特に千曲川の本流と尼ヶ淵との間を「深沼」と記しており、潅木が生えた湿原のようになっていたことが分かる。また、尼ヶ淵の崖面も上田泥流層の特徴を見事に表現している。『仙石時代上田城及城下町之図』の絵図と合わせて、この写しを作成した人の腕前が高いことをうかがわせる。

安政年間上田城下町絵図

上田城古城図(本丸、二ノ丸)

名 称 安政年間上田城下町絵図
所蔵者 上田市立博物館
製作年 安政年間
城 主 松平忠優

解説

  安政年間(1855~1860)は、松平忠優とその子・忠礼が藩主であり、特に忠優はペリー来航や日米和親条約等の締結などの難局を老中として対応にあたった時期である。忠礼は上田藩最後の藩主として激動の時代を生き抜いた人物として知られる。これは両名が活躍した頃の上田城下町を描いた絵図である。
 『仙石時代上田城及城下町之図』、『元禄15年上田城下町絵図』で「中屋敷」と記されていた清明小学校の敷地は、既に「御作事」に変わっている。作事場を囲む堀はまだはっきりと残されているようであるが、この後、徐々に埋め立てられていったことが分かっている。
 また、仙石氏の頃の絵図にはなかった藩校「文武学校」が、現在の第二中学校の場所に見ることができる。藩士の住まいに記されている氏名は、当然のことながら仙石氏の頃とは一変しており、これが松平氏の藩政期に作られたものであることを窺わせる。
 絵図をよく見ると、赤く塗りつぶされた正方形で描かれる「番所」に、「乾角御番所」などの名称が記されているのが分かる。また、原町に「獄所」とあり、犯罪人を留置した場所であろう。小泉曲輪の南側の川沿いには、「獅子岩」とあり、これは現在でも同名で呼ばれている。
 幕末の不安定な世の中で作成された、上田城下町を知ることができる貴重な一枚であろう。

本丸二の丸図(写)

上田城古城図(本丸、二ノ丸)

名 称 本丸二の丸図(写)
所蔵者 市立上田図書館
製作年 幕末頃か(籾蔵6棟あり)
写年等 写年不明・上田市史編纂史料図
城 主 松平忠優または忠礼か?
本丸櫓 形式 層塔型
構造 二重
壁面 一重目、二重目とも白漆喰塗籠
7号櫓に大戸の表現あり
土 塀 構造 瓦葺、白漆喰塗籠
挟間 なし

解説

  二の丸の三十間堀の北側に6棟の米蔵が描かれており、幕末期の上田城の本丸と二の丸を描いたものと思われる。米蔵のほかにも、本丸の中に建物と推定される表現が3つ、二の丸にも3つ建物のようなものが描かれているが、それらの詳しいことは分かっていない。本丸の櫓と櫓門がしっかりと描かれ、それらのなかに天守の代用とされることが多い三重櫓の表現は見られず、7棟全てが二重で同規模の櫓として描かれている。
 この絵図の一番の特徴は、尼ヶ淵の崖面に享保17年(1732)の千曲川の大洪水の後に造られた石垣が描かれていることであろう。特に、石材と石工の不足が原因で、高さを低くせざるを得なかった石垣が忠実に描かれている点は興味深い。また、南櫓の櫓台の下に小さな石垣が描かれているが、この部分は明治期になり、積み増しが行われたことが分かっており、その部分の石垣が描かれていない点は、この絵図が明治期以前に作成されたことの傍証ともなろう。石垣の全面は『仙石時代上田城及城下町之図』の絵図と同様に潅木が描かれ、湿地であったことを予想させる。
 また、二の丸の西南隅に煙硝蔵が描かれていることも、他の絵図ではあまり見られないものである。煙硝蔵は火薬を貯蔵するための施設で、これが作られる以前は、本丸の櫓がその役割を果たしていたことも予想される。
 製作年が明確な資料ではないが、5枚の中では一番新しいものと考えられる絵図である。

上田城城下町絵図の見方

 上田城城下町絵図は、絵図をブラウザ上で表示し、マウス等で拡大縮小して絵図の隅々までご覧にいただけます。

 操作については、以下の一覧をご参考ください。

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