お江と向井佐平次
上田築城
上田攻め
真田昌幸の決断
沼田城の小松殿
燃えさかる炎と黒煙に包まれた上田城下
「別所の湯」へ向かう幸村
上田開城をせまる徳川秀忠軍
戦備を整える上田城
お江、単身家康を襲う
処断
紀州九度山
昌幸の死
大坂夏の陣
小野のお通
遺品
別れゆくとき
文 新潮文庫 『真田太平記』
4 真田昌幸の決断
 慶長五年。豊臣秀吉の没後、徳川家康は露骨に天下への野望をみせ始めていた。前田利家が病没し、反徳川の筆頭・石田三成を佐和山に引退させてからは、豊臣秀頼の後見を名目として大坂城へ入城していた。
 だが、生前の秀吉により、会津若松へ領国を移されていた上杉景勝は、国で戦備を整えていたし、三成も多くの牢人を召しかかえ、城の改築もすでに終わっていた。
 五十九歳になっていた家康は、なんとしても目の黒いうちにと、会津・上杉を攻める決心をし、出陣の号令を諸国に下した。真田昌幸は、決断に迫られていた。徳川に追従するか、それとも恩ある上杉に……。
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 この年……慶長五年六月二日。
 徳川家康は、在国の諸将に向けて、
「七月の下旬に、奥州へ出陣し、上杉景勝を討つ」
 と、発表した。
 ゆえに、諸将いずれも油断なく、出陣の準備をせよというのである。

「さて、父上……」
「何じゃ」
「いかがなされます?」
「出陣のことか?」
「さよう」
「徳川の下について、上杉を攻むる……」
「さよう」
「これ、源二郎」
 と、昌幸が幸村の前名をよんで、
「おぬし、事もなげに申すことよ」
 いまいましげに、冷静な幸村をにらんだが、ふっと笑い出して、
「いたし方もあるまい」
「では、御出陣なされますか?」
「沼田の伊豆守よりも、そのように念を入れてまいったわ」
「兄上の御出陣は知れてあること」
「お前の兄は、何故、徳川を贔屓にいたすのか……」
「人、それぞれにござる」
「おぬしは、いったい、どちらを贔屓にいたしておるのじゃ?」
「おわかりになりませぬか?」
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